『卒業←アレルギー』寄稿文 三宅 舞

 過去における歴史的転換期や政治的決断の瞬間などについて回想されるとき、その時代の「風」がその方向へ吹いていた、と表現されることがある。少なからぬ場合、そのような時代の「風」は、民主制や自由や繁栄をもたらしたかもしれない。しかし、「風」はまた、多くの人々が気づかぬ間に良からぬ方位へ風向きを変え、徐々にその風力を増していくこともある。そして、(幸か不幸か)我々は明確かつ共通の風力計を持っていない。そのようなとき、風向き、風力、その風の温度を感じるのに一番信頼できるものはわれわれの身体である。人差し指を舐めて立ててみてもいい、顔に当たる風を感じてもいい、髪のなびきでその強度を測ってもいい。いずれにしても、人は「風」を感じようとするとき、立ち止まるものである。私は、演劇とはそれを行うメディアの1つだと思っている。演劇を作るということは、時代の風を感じ取る感覚、その風に容易に流されることなく立ち止まる強さと冷静さを要する。ある傾向の演劇は、新たな風を起こそうとし、そしてその風に観客を巻き込むことを良しとしたが、昨今見られる演劇作品の中には、「風に吹かれる人々の様(さま)」を見せることによって、観客を挑発しようとするものがある。ここで私が意味する「挑発」とは、いわゆる「観客いじり」のような、半ば強制的に観客を巻き込もうとする実践方法のことではなく、慣例とは異なる視点から見た状況を提示し、観客に考察のきっかけを与えようとする行為のことである。つまり、「異化」としての挑発といえよう。そして私の印象では、6.5/wの二人はこれをしようとしている。


 6.5/wと日本大学習志野高校演劇部との共同作品「卒業←アレルギー」の制作段階に居合わせてもらった時の印象をいま思い返すと、現場は和気あいあいとしていたにも関わらず、不思議とそこには皆が内に抱える何かに対する怒りや違和感のようなものが漂っているように感じられた。それが、ワークイン・プログレスという形を取っていた本作の原動力になっていたように思う。もちろん、その怒りや違和感の対象は皆それぞれに異なるものであろう。いやむしろ、その対象は誰にとっても明確に言語化できるものではないかもしれない。我々を不安にする風は、どこで、何を原因として発生したのか、その究極的な根源を求めることなどできない。


 「卒業←アレルギー」に詰め込まれたモチーフは多岐に渡り(民主主義、共同体、天皇制、仏教的「無」など)、これらをここで包括的に論じることは私にはできない。だが、敢えてこの作品に通奏低音的に流れている特徴を挙げるとするならば、それは二つある。一つは、あらゆる知覚/認識における境界の曖昧さと不可能性を強調している点である。舞台に現れる二世代の人々の間には10年という年月の隔たりがあるにも関わらず、この両者を分ける時代の境界線は明確には引けない。そして、彼らが語ることの真偽(フィクションとノンフィクション、本音と建て前)の区別もしがたい。これは、我々はいったい何から卒業するのか、卒業できるのか、つまり境界線を引くことができるのかという問いにも繋がるだろう。そして二つ目の特徴は、意図的な中断がさまざまな形で導入されていることである(音楽による進行の中断、突然流れてくるモノローグによる二世代間の会話の中断、熱く語られる政治論、哲学論を切り捨てるかのような卒業生の「いいです」という冷めた一言など)。中断という行為によって、それまで語られたこと、その状況は相対化される。


 このように「卒業←アレルギー」は、ときに中断という異化としての挑発の方法をとりながら、発生源を特定できない正体不明の風、しかしペストがじわじわと蔓延するようにいつの間にか我々を包み込んでいる風を、それに吹かれる人々を見せることによって感じさせる。我々は立ち止まって、その正体不明の風を研ぎ澄まされた感覚で知覚し、それを相対化できる身体を持つことが望まれる。たとえそれがアレルギーとして発症したとしても。

三宅 舞

 

(寄稿者プロフィール)

慶應義塾大学文学研究科独文学専攻博士課程在籍中。

2005年3月に同大学文学部を卒業後、6年間松竹株式会社に勤務。その後2011年度より同専攻にて改めて演劇学の研究を始める。

研究対象はドイツ演劇学および現代演劇。

博士論文執筆に向けて2014年秋よりドイツ・ライプツィヒ大学演劇学科へ留学中。

目下のテーマは演劇における「(主に身体的)リズム」。これまでに扱ったテーマ:「笑い」(スイスの演出家クリストフ・マルターラーの舞台)、「音楽の演出」(ドイツの演出家ミヒャエル・タールハイマーの舞台)など。