『wait』寄稿文 濱田 直希

 waitでは、BGMの編集のお手伝いや、着物の着付けに参加させていただくといった形で関わらせていただきました。自分で白状してしまうのも何ですが、今回のプロジェクトで扱ったような近世の日本文化にはめっぽう疎く、私の編集したBGMが江戸長歌というものだと後になって知ったり、着物の着付けだって今回初めて体験したほどで、日本人としてこりゃいかんな~と感じる一方、こういった機会がなければ一生触れないままだったかもしれないと思うと、非常に貴重な体験をさせていただきました。


 この日本近代プロジェクト、太宰治の『待つ』という小説を題材にしたものだと聞きました。1942年6月、太平洋戦争の最中、太宰治が33歳のときに書かれたわずか4ページの小説です。二十歳の娘が毎日駅に行っては、ベンチで様々な空想を巡らせながら、誰ともわからぬ人を、いや、人とも限らぬ言い知れない何かをただじっと待つ――どこか浮世離れしていて、それでいて娘の心情に不思議な共感が沸き起こる情趣あるお話です。


 人が何かを待つとき、ふと〈間(ま)〉が意識にのぼります。特にこれといってすべきことのない、つかの間のぽっかりと空いた時間に――『待つ』の娘がそうしたように――これから起こりうることへの期待や不安など、様々なイメージを膨らませます。言うなれば、情緒は〈間〉に宿るのではないかと思うのです。そして、情緒が〈間〉によって生まれ形作られる存在ならば、すべての創造・表現行為、ひいては人の感情に特定の影響を与えることを志向したあらゆる営みというのは、結局のところ、〈間〉のデザインに還元されるのではないかと思うのです。


 ここでいう〈間〉とは、なにも時間的な〈間〉に限ったものではありません。空間的な〈間〉についても、例えば建築を例に挙げれば、同じ構図がはっきりと見てとれます。建築とはsolid(物質)によってvoid(空間)をデザインすることだとしばしば言われます。落ち着きのある建物、明るい建物、未来的な建物、無機質な建物など、人が建築物に入ったときに受ける印象には様々なものがあります。しかし、どのような建築物であれ、そこから受ける印象は人によって多少の差はあれどもランダムではありません。個人の感受性の差異を超えた普遍性があります。つまり、人が感じる印象は、建築物が作り出す空間によって規定されています。したがって、空間についても、情緒は〈間〉に宿るといえるでしょう。


 このように、情緒が〈間〉によって規定される、というのは時間・空間を問わず成立する一般的な法則のようです。しかし残念ながら、我々は〈間〉を直接的にデザインすることはできない、ということもまた一般的な法則です。おそらく建築家は、建築物に入った人が特定の印象や雰囲気を感じるようにvoidをデザインしたいのだと思います。一方で、建築家が直接的にデザインできるものは、間取りや内装などのsolidだけです。音楽でも「休符を演奏する」とはよくいいますが、これは音の入りと切りを意識することによって時間的な〈間〉を的確に演出することの重要性を説いた比喩であって、我々が直接演奏できるのは当然音符だけです。いずれの分野にせよ、我々は物質や音といった物理的存在のデザインを通して相補的に、物理的不在である〈間〉をデザインする、という回りくどい方法を採らざるをえません。


 数理科学では、上記のような2つの概念が対になり一方が他方を規定しあう様子を「双対性」とよびます。直接的には解けない問題であっても、その双対をとった問題は解けることがあります。双対問題を解き、その答えに対して再び双対をとると、解けないはずだった元の問題の答えが得られます。元の問題には一切手を触れていないのに元の問題が解けてしまうさまは一種の手品のようです。これまでにみてきた、存在のデザインを通して不在をデザインする様子に似ていないとも言い切れません。また、空間的な存在と不在の双対性についてはより明確に、アレクサンダー双対性というものがあり、n次元球面のコンパクトな局所可縮部分空間の(k-1)次ホモロジー群とその補空間の(n-k)次コホモロジー群は同型です――直感的に説明しようとすると語弊があるかもしれませんが、「図形がどのように繋がっているかを調べること」と「図形が描かれなかった余白にどんな絵が描けるかを調べること」は実質的に同じだということです。前者は建築家がデザインしたsolidを、後者はvoid上に宿りうる情緒を連想させます。建築では、間取りや内装が決まれば、それによって空間が決まり、何らかの情緒が演出されます。反対に、空間にどんな情緒を演出させるかが決まれば、それを実現するために最適な間取りや内装が何かしら決まるでしょう。建築家の仕事とは、solidとvoidの双対的対応関係をとらえ、solidをデザインすることを通してvoidをデザインすることように思います。ここまでくれば、他の様々な分野の創造・表現行為についても、物理的存在のデザインを通して物理的不在をデザインするという構図を見出すことができるでしょう。


 しばしば、〈間〉や情緒というのは、日本的な概念だと言われます。〈間〉とは物理的不在、つまり物理的存在が先にあって初めて立ち現れてくる間接的な概念であり、情緒はそんな〈間〉の中にこそ生きる、さらに一段奥ゆかしい概念だからでしょうか。しかし、改めて考えてみると、人の感情に関わるあらゆる活動で普遍的に顔をのぞかせる、国籍や人種を問わない概念なのではないか、そんな思いを強くしました。

濱田 直希

 

(寄稿者プロフィール)

千葉県四街道市出身。

東京工業大学 大学院総合理工学研究科 知能システム科学専攻修了 博士(工学)。

(株)富士通研究所にて多目的最適化、進化計算、機械学習の研究に従事。

大学ではろくに授業にも出ず友人宅に泊り込み、作曲とプログラミングばかりしていたら、どういうわけか研究者になっていた。

最近のブームは、仙人ごっこと称して手ぶらで山に入って遭難しかけたり、時々ピアノを弾いたり。

3度の飯よりラーメンが好き。