政治/芸術の綱渡り ―外山恒一の政治的パフォーマンスの演劇性

 

1、外山恒一のプレゼンス

 外山恒一は、アナーキズム的主張とユーモラスかつアイロニカルなパフォーマンスで知られる政治的アクショニストである。外山自身が演劇芸術家として自認している訳ではなく、彼の全ての活動が上演としての性格を持っている訳でもないが、選挙制度の内外を行き来しながら遂行される彼のパフォーマンスは、民主主義政治と選挙制度に対する挑発的な問題提起によって、それに関わる全ての「参加者」の変容を促し、ある種の上演としての美的経験を生み出す。

 

 外山の一連の選挙パフォーマンスは、常に反資本主義、反グローバリズム、反リベラリズム的思想に基づき、既成権力に対する少数派のアイロニカルな眼差しに裏打ちされている。2007年の東京都知事選に立候補した際には、選挙ポスターやSNSを通じて高円寺駅前に集まった聴衆との直接討論を毎晩開催し、また政見放送では「選挙など多数派のお祭りに過ぎず、選挙では何も変わらない。選挙に行くな」と呼びかけた。都知事選の立候補者によるテレビ演説は公職選挙法により編集が禁じられており、この演説の動画はテレビ放映されるとほぼ同時に、YouTubeなどで繰り返し再生され、話題を呼んだ。

 

 2008年のアメリカ大統領選挙では、一方的に立候補を宣言し、「全世界がアメリカ化し、アメリカが全世界の内政に介入する現在、全人類がアメリカ大統領選の選挙権と被選挙権があるはずだ。私を支持する者は選挙をボイコットして意志を示せ」とインターネット上で演説動画を公開し、開票後に「約65億人の支持を得た」と総括した。2012年の国政選挙では、『原発推進派懲罰遠征』と銘打って、日替わりで九州各県に現れ、街宣車でショパンの『葬送行進曲』を大音量でかけながら保守系政党の候補者達を「彼(彼女)は原発を推進している。原発を選挙の争点にせよ」と演説しながら追いかけるパフォーマンスを行った。そして2013年の国政選挙では、やはり街宣車を用いて「我々テロリストは原発を推進する自民党を支持する。原発で国を滅ぼそう」と呼びかけながら日本中を回る『原発推進派ほめご…大絶賛ツアー』を行った。こうした外山の一連のパフォーマンスは、逐一インターネット上で中継され、それに対する他の候補者や警察や通行人の反応も合わせて公開される。

 

 外山は、例えば東京都知事選の政見放送において、他の候補者を街宣しながら追いかけるツアーにおいて、また聴衆との直接討議の場において、その都度異なるコンセプトに応じて異なる自己演出を行い、外山自身の個人としての特異なプレゼンスが様々な形で現れる。しかし、パフォーマーとしての外山が様々な「役」を演じている(実際に東京都知事選の政見放送のために「練習」によって「役作り」を行ったと外山は発言している)事は明らかだとしても、通常の「プロの」演劇における「俳優/役」という図式は彼のパフォーマンスには当てはまらない。彼は何か別の存在を模倣・再現しているのではなく、あくまで本人として語り、行為し続ける。様々な「役」は、「観客」によって常に外山恒一という特殊な個人へと結びつけられながら知覚される。その意味で、彼は「プロの」俳優ではなく、パフォーマンスアーティストであり、見られ行為する事の「エキスパート」である。

 

 彼の身振りは、イリュージョンの惹起のためには働かない。彼の身体は「語り手」であり「報告者」であり「大道芸人」である。また彼自身のアイデンティティは、政治活動家でありパフォーマーでありミュージシャンであり思想家でもある。外山のプレゼンスにおいて、まさにそうしたアイデンティティの矛盾が解決されることなく、矛盾のままオープンに提示されることで、「参加者」は、外山の存在と直接(或いはインターネット上で間接的に)相対して常に「彼は何物なのか?」「何がしたいのか?」「どこまで本気なのか?」と自問せざるを得ない。もちろん討議において外山に「あなたは本気で政治革命を目指しているのか?」と問いかけるとすると、「そうだ」という答えは返って来るだろう。しかしこの答えもまた、本心から出た答えなのかどうかは際限なく疑わしい。何故なら外山の言動は、本気で政治的結果を導き出そうとするには余りにも挑発的であり、通常政治家として想定される振る舞いからはるかにかけ離れているからだ。観客は、この発言と振る舞いの差異によって常に宙吊りの状態に置かれ、その結果外山の不可思議なプレゼンスが成立する。すなわち外山が行っている「役作り」は、特定の「役」に至るためではなく、まさに過程を過程として提示するための行為に他ならない。外山が革命家を名乗り、政治的主張を明確に述べれば述べるほど、逆に観客の知覚の中で彼の存在は捉えきれないものになっていく。外山が至ろうとする「役」の意味と、その過程における外山自身のプレゼンスは、観客の意識の中で相互に交錯しながら知覚される。

 

 例えば東京都知事選における高円寺の討議空間では、しばしば即興的な応答や聴衆の拍手喝采が生み出す雰囲気に影響を受けて、外山自身も高揚していく瞬間が見られる。そうした際には政見放送における外山の自己演出はなりを潜め、むしろ「素人臭さ」が際立つ。そうした素人臭さと、政見放送や「政府転覆」と大書された選挙ポスターから浮かび上がる「革命家」としての外山の像との間には明確な距離がある。外山自身がこの距離を自覚的に「演じて/遊んでspielen」見せることで、外山の謎めいたプレゼンスがさらに強調される。すなわち外山のプレゼンスは、政治家としてのプレゼンスとも、パフォーマーとしてのプレゼンスとも異なる、自覚的な距離の遊戯における、差異が生み出すプレゼンスだと言えるだろう。

 

 ただし、外山のパフォーマンスにおいては、しばしばインターネットが情報の拡散と共有のための重要な役割を果たす。しかし外山のパフォーマンスはメディアアートではない。彼自身がインターネット上の情報がエンタテイメント化され消費される事に対して批判的であるように、あくまで彼のパフォーマンスの中心は彼自身と他者との直接的な経験にある。インターネット上で彼の行為や言説について見知った「観客」は、外山という存在についてあらかじめ様々な情報を手に入れ、想像力を働かせる。そのような「観客」が実際に外山を直接眼にした時、想像上の外山と実際の外山が合致するにせよ差異が生じるにせよ、「観客」はパフォーマンスの「参加者」となり、外山のプレゼンスを経験するのである。この経験は、例えばメディアで報道される俳優や政治家やテレビスターを実際に目にする体験とは全く異なる。もちろん彼らもテレビカメラの前で様々に演技し、自己プレゼンテーションを行っていることは間違いない。しかし、彼らの自己プレゼンテーションは、原則として統一的・一貫的アイデンティティへと向かう。マスメディアが、有名人の仮面を剥ぎ、スキャンダラスな「本当の姿」を暴露しようと躍起になるのは、彼らスターが少なくとも見かけ上は一貫したアイデンティティを有しているという通念が存在するからに他ならない。一方外山に関しては、初めからアイデンティティの固定化が放棄され、その状況ごとに現れては消える「役作り」があるばかりである。外山に「本当の姿」などは存在しない。あるのはただ、絶えざる移行過程としてのプレゼンスである。

 

 

2、遊戯空間としての選挙

 

 外山は2013年の参議院選挙後に大手新聞に掲載されたインタビューでは、「勝利したのは自民党ではなく、投票率低下を呼びかけてきた我々だ」と答え、保守派政党が大勝利を収めた現在の政治状況を、民主主義の敗北や機能不全ではなく、まさに民主主義の結果であり、民主主義そのものを疑うべきだと論じた。こうした外山の主張そのものは、1968年世代(日本では学生紛争と反戦運動を行ったいわゆる「全共闘世代」)の影響を色濃く受けるものである。また西洋思想を遡れば、プラトンが『国家』の中でアイロニカルに論じる「秩序もなければ必然性もない」「その日暮らし」の民主主義者(アラン・バディウによれば「民主主義者の実存的無秩序」)に対する批判として解釈することも可能であろう。

 

 しかし、外山自身が自ら「真面目に不真面目」と称するように、外山の活動は常に政治活動でありながら、美的経験を可能にする遊戯行為でもある。そこでは「参加者」と、そして何よりも外山自身が「楽しむ」事が第一とされ、政治的主張や社会批判は必ずしも最終目的とは見なされない。

 

 2012年「原発推進派懲罰遠征」において、次のような一幕があった。ある候補者に対して「彼は原発推進派だ」と外山が街宣車から呼びかけたところ、候補者は「誰に金をもらってやっているんだ、ワタナベ(後に外山が語るところによれば、ある新自由主義政党の政治家を指していたらしい)か?」と叫んだ。そのやり取りがインターネット上で公開されるや否や、外山の銀行口座に「ワタナベ」を名乗る個人の寄付が相次いだと言う。また2013年には、「我々テロリストは原発を推進する自民党を支持する」と街宣するツアーの最中に、自民党や自民党党首を名乗る寄付がやはり相次いだと言う。もちろんこれらの寄付は、本当に「ワタナベ」や自民党から贈られた訳ではなく、常日頃自身の活動への寄付を呼びかける外山への応答が、「ワタナベ」「自民党」というフィクショナルな遊戯として現れたと考えるのが自然だろう。これらの出来事は、「支持者」として外山の活動を注視する「観客」が、寄付という現実の行為を通じて外山のパフォーマンスに参加し、それによってフィクショナルな遊戯の場が生まれた事例だと言える。

 

 ヴォルフガング・イーザーが、遊戯を「虚構的なものと想像上のものとの共-存」と呼ぶように、遊戯とは参加者がある共通のコードに基づいて、自覚的に「現実/虚構/想像」の境界を踏み越えることである。そこでは参加者が現実の関係に捉われず、ある種の一時的な共犯関係を結ぶ。すなわちここでの「フィクショナルなものの遊戯空間」とは、外山と彼に関わる「参加者」がインターネットを介して、現実の選挙運動の狭間に束の間作り出す、アジールとしてのあいだの空間である。このあいだの空間においては選挙という具体的な「事実」は一度括弧に入れられ、遊戯として問い直される。ただし、この遊戯の結果、「ワタナベから金をもらって特定候補者を追尾する」という外山に対する「まじめ」な非難は現実のものとなる。外山の現実の行為に対する「まじめな」非難から「遊戯」としての共犯関係が生まれ、それがまた現実の結果へと結びついていくことで、外山の存在はさらに多層的・メタ的になる。

 

 外山のパフォーマンスにおいて、「俳優/観客」の図式は存在しない。東京都知事選においても国政選挙においても、外山が呼びかける相手は、有権者或いは潜在的有権者としての若者や国民であり、投票を通じて直接的に選挙に関与する存在である。演説で言及される候補者や政党だけではなく、通行人やインターネットの閲覧者も含めて、誰もが客観的・中立的な「観客」としての立場を取ることができない。仮にその立場を取りうるとすれば、議会制民主主義のプロセスとしての選挙に無関係な立場に他ならない。そうした意味で、全ての「観客」は同時にパフォーマンスの「参加者」であり、遊戯空間としての上演空間を共同で創造する存在だと考えることができる。外山と、様々な形でその状況に関与する「参加者」との相互作用によって生じるこの状況は、誰もが異質なもの/人/行為と出会う間身体的状況として解釈する事ができるだろう。前項で述べた、外山のプレゼンスにおける矛盾は、選挙という遊戯空間における観客/参加者の経験における、乗り越えがたい裂け目/分裂をもたらす。それこそが、外山のパフォーマンスにおける、いわゆる「政治演劇」とは異なる意味での「政治性」に他ならない。

 

 

3、政治的演劇/演劇的政治

 

 外山の一連のパフォーマンスにおける鋭い批評性は、意図的に合法の範囲に留まる「遵法闘争」によって際立つ。例えば現在の日本の公職選挙法では、選挙運動期間中に他の候補者を名指しして「投票しろ」或いは「投票するな」と呼びかける事は違法とされるが、「彼は原発を推進している」と「事実を指摘する」のは合法である(ただし幾人かの候補者からは「ネガティブキャンペーン」と呼ばれる)。また、予め選挙管理委員会に届け出た政治団体による街宣は違法だが、届け出ていない団体の街宣は法律上イベントの広報車と同じく合法となる。もちろん少なからぬ候補者や、時に警察から外山の活動は「違法だ」と非難されるが、外山自身が反論し、そのやり取りがインターネット上で拡散されることによって、法律の運用や選挙制度の矛盾が露呈していく事になる。このような「遵法闘争」は、「違法にならない範囲を自分が示すことで、全国で同じ活動が起こることを期待したい」という外山の政治活動家としての性格を表すものでもある。

 

 こうしたパフォーマンスプロジェクトについては、ドイツ語圏で言えばシュリンゲンジーフのアクションが思い起こされる。『オーストリアを愛してね!』などでシュリンゲンジーフは、彼を非難する者も称賛する者も無視する者も、プロジェクトの要素として取り込み、彼ら自身の反応が批判的に反転する構造を戦略的に作り出したが、この点は外山にも当てはまる。「彼は原発を推進している」という外山の「事実の指摘」に対して「ネガティブキャンペーンだ」と言う候補者、「反原発運動だ」とレッテルを張る傍観者、「他の県でやってくれ」と耳打ちしてくる警察、誰もが無意識に自己矛盾に陥ることになる。さらに、彼の活動を手放しに称賛する者に対しても彼の眼差しは同様に厳しい。シュリンゲンジーフがピーター・セラーズについて「必要だと思うなら自分もやればいい」と言うように、責任も危険もない所から芸術的/政治的挑発を無批判に消費しようとする「観客」をこそ、外山は批判するのである。

 

 ただし、本来彼の活動の出発点は政治活動であり、政治的・現実的目的を達成するための手段として、「仲間を集めるための手段」として、多岐にわたる活動を行う中で、次第に演劇的表現へと接近していった事は強調しておかなければならない。すなわち外山は政治活動を突き詰めることによって演劇と近づいていったのであって、この点は、シュリンゲンジーフや、或いは寺山修司や忌野清志郎が、あくまで芸術家として政治的素材を扱い、表現へと転換させていった事と決定的に異なるであろう。

 

 外山の活動は、常に芸術と政治の二面性、言い換えれば自律的芸術と政治参画の二律背反を含む。外山自身は、パフォーマンスに際して政治的意味を度外視している訳ではないが、同時に彼が行っていることは政治的意味を破壊する感覚的ショックであり、政治的結果に至るまでの過程そのものが問題となる。東京都知事選の期間中に高円寺駅前で毎晩現れた、外山と聴衆の対話による祝祭的討議空間は、外山の支持者による政治集会であり、討論会であり、また外山自身によるパフォーマンスでもあった。そこで聴衆は、常に態度表明を迫られる。同意するのか、反発するのか、或いは冷笑し、無視するのか。どの態度を選択するにしても、その自身の態度に対する外山ないし別の参加者による反応(同意、反発、批判、無視、笑い、怒り等)が生まれ、絶えざる自己省察が要求される。すなわち、外山自身があえて自身の立ち位置を不鮮明にする事で、参加者は自己省察を通じて、自身を他者として経験する。そこでは政治的意味が表現によって伝達されるのではなく、政治ならびに芸術制度そのものが問い直される事によって、表現における新たな意味が生成されるのである。

 

 外山の選挙パフォーマンスは、従来の意味での政治演劇またはパフォーマンスと混同するべきではない。実際の選挙という特殊な状況において、外山自身のプレゼンスと参加者の相互作用によって生じるアジールとしての遊戯空間では、民主主義制度そのものすら自明の前提とはならず、現在の政治および芸術制度のあり方を一度括弧に入れ、異なるあり方について考察する事が可能となる。こうした機能こそ「共同体の別の可能性、新たな見方とオルタナティヴな実践を感覚的経験において試す」(ヤン・デック)、すなわち「政治的に演劇を行う」ことの実践と理解する事ができるのではないか。

 

 日本における政治演劇が、明治期の新派劇と戦間期のプロレタリア演劇における政治的主張の手段としての演劇と、1960~1970年代の小劇場運動における、独自の方法論と集団主義を伴う政治的・社会的事件としての演劇に代表されるとすると、外山の選挙パフォーマンスは、政治と芸術の境界上に立つ第三の試みだと言える。仮に類例を挙げるならば、2013年の国政選挙に際して反原発を唱えて立候補した、俳優の山本太郎とミュージシャンの三宅洋平による「選挙フェス」がある。渋谷の繁華街をはじめ全国各地で開催された選挙フェスで、彼らはライブ演奏やポエトリーリーディングとしての選挙演説を行い、祝祭的な場が形成された。なお、山本は無所属ながら東京都から当選に至っている。しかし、彼らと外山の大きな違いは、外山自身が選挙における当選を目的としていない事である。むしろ選挙という現実的・政治的なプロセスに際して、そのプロセスそのものに疑いの眼差しを向ける事こそを外山は重要視している。政治を「ゲーム」と呼び、民主主義制度を「一つのルール」に過ぎないと言い切る外山は、「現行のルールでは決して勝てない以上、ルールそのものを変える」と語る。もちろんそれは、現実的には不可能であり、常に挫折と敗北を前提とする闘争と言えるかもしれない。しかし、政治的な挫折を学問や芸術の制度内で表象するのではなく、あくまで境界上に立ち続けることで、政治集会ともディスカッションともパフォーマンスともつかない、独自の遊戯的な上演空間が生まれ、かつ現行の政治/芸術制度における異他的経験を可能にするのである。

 

 それに加えて、日常における瞬間的な異物、中断という意味では、フラッシュモブのような文化現象を類例として想定することも不可能ではない。SNSやメールを通じて集まった見ず知らずの集団による一瞬のハプニングは、それ自体が日常における異物として機能し、その場に居合わせた人々に、一瞬の発想の転換或いは美的経験をもたらしうる。「アラブの春」や「ウォール街を選挙せよ」といった実際の政治運動にも、そうしたインターネットを通じたアクションという一面がある事を考えれば、フラッシュモブのようなパフォーマンスが政治的結果を生むための媒体として機能するとも言える。しかし、だからこそ逆に、フラッシュモブと外山の選挙パフォーマンスは厳密に区別されなければならない。外山のパフォーマンスは、「アラブの春」のような現実の政治的変革とは決して結びつかない。何故なら外山のパフォーマンスは、インターネットを通じて「ウォール街に集まれ」と呼びかけるのとは異なり、本質的に多数を志向しないからだ。彼が「私を支持する者は投票に行くな」と呼びかけた場合、彼に賛同していないかもしれない人をも、自分の支持者として想定する事ができる。であるが故に、外山が「現実の」革命と政府転覆を主張すればするほど、それは「遊戯」としての性格を帯び、現実的成果へと結び付く事はない。まさにそうだからこそ、決して事実としての政治に取り込まれることなく、「政治的なものの中断」としての政治性を獲得するのである。

 

 選挙期間中の街中で突然外山の街宣車を目にした場合、明らかにそれは周囲の日常とはかけ離れた異物として、日常の中断或いは裂け目として経験されるだろう。少なからぬ人が極右の政治団体として嫌悪の眼差しを向けるか、意図的に無視するであろう事も想像に難くない。しかし、立ち止まって注意を向ければ、そうした「観客」の反射的な反応もまた、「政治的な言説を極端に隠蔽する」という政治性に他ならないことに気付くだろう。そうした意味で、外山のパフォーマンスは「観客」を選別するものであり、外山本人が言うように、アイロニーを理解する「リテラシー」を要求するものである。その点はユートピア的な万人のための芸術主義と決して相容れるものではない。しかし、時に露悪的なまでに過激な主張(「政府転覆」「スクラップ・アンド・スクラップ」)を唱え、議会制民主主義制度を痛罵し、にもかかわらず法律の範囲内で行われる外山のパフォーマンスは、日常における異他的な存在として、今いるこの世界を束の間ずらす行為として理解する事ができるだろう。「芸術と政治の中間」(外山)に位置する外山の一連の選挙パフォーマンスは、われわれ民主主義国家に属する国民に対して、「非政治的政治性」という異他的経験を可能にするのである。

 

 

 1968年前後の日本における学生紛争とベトナム反戦運動の挫折、その後の労働運動の衰退は、ある意味で芸術と政治の乖離をもたらしたと言える。「まじめな」政治活動と「遊戯」としての芸術運動は、長らく少数の例外を除いて断絶した関係にあった。90年代後半から2000年代前半にかけてマスメディアに「劇場型政治」という言葉が登場したが、単純な対立図式を作り出して熱狂を煽るポピュリズム的政治手法の比喩として劇場が用いられたに過ぎない。そうした背景を考えると、2000年代後半になって広く知られるようになった、「遊戯」と「まじめ」の二分法を解体する外山のような活動は注目に値する。無論外山自身は「まじめ」に政治活動を行っていると自分では語る。しかし、そこに1968年世代の、社会変革に向かう悲壮な緊張感はない。「まじめ」な政治活動を突き詰めていくことで、そこに現れる中断の瞬間としての「遊戯」をこそ、外山はテーマ化しているのである。外山のパフォーマンスは常に、ニヒリスティックではあるがシニカルではない。彼は常にユーモアというバランス棒を手放さずに、政治と芸術の間に渡された一本の綱の上を歩いている。

 

(寺尾恵仁、2014年)